わからないから、近づけない 《滌,這個不正常的人》を読む #2
大学、ボランティア、インターン、大学院、仕事。外でたくさんのことを見て、たくさんの友人ができて、劣等感から抜け出して、自分にも価値があるはずだと思えるようになりました。まわりの人たちが「いろいろな人と関わって、社会性を身につけてほしい」と期待していたとおりのはずなのに、そのころ、彼らは私が変わったと言いました。極端になった、議論好きになった、細かくなった、と。日常の問題を指摘し、生活習慣を変えてこだわり、ある種の活動への参加を断るようになったこと。自分が社会の一員だと思うからこそ実践してきたこれらのことは、前向きなことだとは見なされませんでした。
私を理解したいのか、それとも変えたいのか?
ロジャーズは言う。人はいつも「評価的な理解」を示すものだ、と。たとえば:「私もあなたのような経験をしたことがあるけど、私の反応はあなたとは違った」。こういう批判的な理解を、人はよくする。自分と違う行動を評価して、言うときには「わかるよ」「知ってるよ」を添える。でも、それは本当の「共感」ではない。(p152)
ロジャーズは言う。「もし誰かが、私が本当にどう感じているかを理解してくれて、私を分析したり、評価したりしないでくれたなら、私は、そういう雰囲気の中で、きっと花を咲かせて成長できる」(p153)

私は、「選択をする」ことは、いつだって個人の好みだと思っています。誰かと協力するために、相手に自分の選択を受け入れてもらう理由を探したり、話し合いのなかで、ある選択に妥協したりすることはあります。
でも、自分の暮らしの中で、自分にしか影響しない選択まで、なぜ世間の目に合わせて、他人に受け入れてもらうよう説得しなければならないのでしょう? もう少し遅くまで寝ていたいから、会社の隣に住んで、高い家賃を払う人もいます。仕事と生活を分けるために、毎日45分かけて通勤するほうを選ぶ人もいます。いつでも、お金を気にせずに使えるように、たくさん稼ぎたい人もいれば、田んぼや畑を持って、自給自足の平凡な暮らしをするのが夢という人もいます。
これは、どれも、正しい間違いとは関係のない、個人の好みにすぎません。
でも、私の選択は、家族にずっと受け入れてもらえず、それどころか、あれこれ口を出されていると感じていました。そのせいで、家族との関係について、よく混乱します。家族だから、彼らの、選択についての価値観を受け入れなければならないのか? 私がよく感じるのは、評価的な理解、あるいは、理解したくないという気持ちです。
これを書くのは、家族関係を公に愚痴りたいからでも、育て方の失敗を責めたいからでもなく(実際、そんなことはありません)、独立した個人どうしの衝突という形で、長いこと私を悩ませてきたことを語りたいからです。そしてこの過程で、苦しんでいるのは私だけではなく、理解されないことや否定されることを我慢しているのも、私だけではない、とはっきりわかっています。彼らもまた、私が打ち明けないことや、悪い態度、よそよそしい愛想に耐えているのです。
関係がもっと近づけない、おたがいにわかり合えないという問題は、部屋の中で、わざと無視されている象のようです。そして私も、ハリネズミのように、いつでも反撃できる構えでいます。弱いところをひとつ見せたり、本当の気持ちを伝えたりすると、傷つくだけだったから。もう一度傷つくのが、怖すぎるのです。
あきらめることを選ぶほうが、いいのか?
ここで身動きがとれないのは、全部、他人の責任なのか? お母さんが、あなたにお金を渡す理由がどこにある?
私の口調は少しきつかった。滌は、聞き終えると、静かに言った。「そのほうが、ラクだから」(p144)
滌が「ラクだから」と言ったとき、私は考えました。家族の前で、自分のこだわりや意志をすべて捨てることは、関係を平和にする、いちばんラクな方法なのだろうか? でも、その決断は、いちばん「円満」なのだろうか? それは、彼らに本当の私を知らせないことを選んだのと同じではないか?
一生、あなたをわかってくれない人がいると受け入れて、対話や、考えを伝えることをあきらめ、意見が食い違うすべての場面で妥協して従うことは、この関係のために、もう何の努力もしないということです。そして、私が「まだここにいる」のは、簡単に別れられない関係だから、というだけのことです。それで、いいのでしょうか? 誰にとって、いいのでしょうか?
人と関わるなかで、ときには、スキーのように、ぶつかってくる人や、自分と対立するものを、さっとかわせることもあります。でも違うのは、彼らは、いつもそこにいるということです。誰かが変わるまでは、この、あまり心地よくない現状を保つしかなくて、目隠しをして、みんなで地雷を踏むゲームをしているようなものですが、少なくとも私は、まだ痛みを感じます。それは、まだ気にかけているから。まだ、あきらめていないからです。
学び、探索しながら成長してきたなかで、自分なりの生き方と価値観が育ち、違いを味わって、一緒に生きていく柔らかさも育ちました。自己中心的で、間違えるのが怖くて力を抜けない性格が育つのと同時に、自分で考えること、細やかに物事を進めること、人に好かれる部分も育ちました。生まれつきと育ち、抵抗するか従うかの選択は、言葉にしにくいほど複雑に絡み合っていて、同時に、ひとつのものの表と裏でもあります。
そして、私はまだ育っている途中で、練習している途中だから、「大丈夫」と自分に言い聞かせます。